Li - the過ぎ行く日々のかたみに。

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2008.02.10 Sunday ... - / -
#日と陰の話 
部分分けしたはいいけど、後日続きの内容がスムーズに書けるか?
あいにく私はそんな便利な仕様にできていません。
いいことも嫌なことも一晩寝たら忘れるシアワセな人です。
だから続き↓
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2007.10.29 Monday ... comments(0) / -
#日と陰の話 
陰陽の概念をちょっと理解した。
思考と感情のレベルではわりと筋が通った理解を得たと思う。
じゃあ身体レベルでの理解はどうかと言われたら自信が無い。そんな程度です。

もともとは茶の研究内から思考の端に入って、気になったこと。
それ以前に恩師が陰陽がうんたら〜と言っていた記憶はあるんだけど
難しすぎて分からなかったし、興味湧かなかった(先生ごめん)
でも茶を勉強してても、まだ分からなかったな。
直接には氏名について考えてた時にグッときました。
(ほへとさんのwebとブログもかなり参考になりましたよ)

おっと、具体的に話す前にひとつ。
一般には氏名の、主に画数による姓名判断がありますが、それとは別の考え方です。
またこの場では、あくまでも陰陽についておおざっぱに話す例として氏名を持ち出しています。
そんなんで許せそうな方だけ続きをどうぞ。
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2007.10.29 Monday ... comments(0) / -
#咀嚼する言語
結構大事なこと書いたな、と思ったので「その日のこと」カテゴリより抜粋独立。
よって以下の文および投稿時間は当時のままです。

あと久々に文章(notブログ)を褒められて嬉しいです。
こっからじゃ届かない声だけどありがとう。
ブログなんかだと適当になっちゃうけど、本気の文章は必ず声に出しながら考える。
さらに本気の文章は声に出しつつ、必ず手書きしながら考える。
何だかんだ言ってことばは呪術ですから。
難しい言い回しができる(知識がある)か否かではなく、語感を大事にしています。
語感というか語呂のいい言葉が気持ちいいのと同じ原理です。
知識量があるということは、同じことを言いたいときに選択肢が広がる、ということ。
ただめずらしい単語使えるからっていい文章になるとは限りませんよ
そして語感は優れた文章の蓄積、つまり読書によって養われるもの。
だから良い文章を書ける人は必然、高確率で「頭のいい人」になるのだと思われる。
(で、私の場合好きな文章が出てきたら、その文章家ごとご贔屓になるわけです)
ちなみに伝えたいという情熱は、文の上ではスパイスぐらいに香るだけでいい。
以上、私見で失礼。
2007.10.22 Monday ... comments(0) / -
#10月17日
アナログでちゃんとした記録作るつもりだけど、とりあえず記録(メモ)つけてみることにした。

初診。対応時間は1時間半くらい?
先生は落ち着いた人だった。
予約時は電話で声しか聴けなかったから不安だったが安心した。

当たり前だけど自分のことばかり喋る。喋らされる。
後半になるとさすがに気が引けはじめるが、先生いわく「大丈夫ですよ」。
まあ、ここで遠慮したらカウンセリングの意味が無い。信じて喋る。
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2007.10.19 Friday ... comments(0) / -
#pointless XXX
一旦思考にエンジンが掛かると止め処なく溢れるのが私の長所/短所。
あとはそれを地に着ける作業を怠らなければいいね。自分にエール

昨日の記事を書いたついでに、自分で引いた線を超えて、手放すために必要なことを考えてみる。(思考エンジンが火噴いたままなんだ)
…というか、言語化できる時点でもう認識できるので書き置きしておく。

・このブログを本当の意味で「公開」すること
・途中連絡を怠らないこと、怖がらないこと
・とりあえず誰かに相談してみること

いっこめはもっと多くの友人・知人にここのアドレスを教えること。
今ここは私にとって一番無防備なスペースで、だから実際に顔を知っている人でもごく限られた、痛んだ(傷んだ)生々しい血肉を見せても大丈夫だと思った人にしか教えてない。
気楽に書きたいだけ書けるいい場所です。
でもここに書かれていることが私の本音の一端なら、それを日のあたる場所にもう少しだけ近づけてもいいよね?とも思うようになった。
一気に白日の下なんて行けないから、まずは屋外の日陰ぐらいで。
(今は北向きの部屋でカーテン締め切って、ドアを少しだけ開けてるような感じ)

人の目があってもリラックスしてマイペースでいけるか、あるいは
自身のペースとスペースを周囲と調和しつつ維持できる努力ができるか。
これは私の人生上で重要な問題。
身体を含めた、丸ごとの私自身が真に願っていること。
ずっと外側の価値観に翻弄されて、激しく揺れ続けて苦しかったし、これからも度々揺れるとは思うけど。

友達に、人々の視線の中で自分の考えたこと、感じたことをブログで公開している人がいます。
彼女がどういう思いで私たちにアドレスを教えてくれたかは、本人に訊かなきゃ分からないけど、たぶん、そう、だと、そういう面もあったんだろうと私は思っている。
ことばを、文を発する喜びと、それ以上に苦しみをきっと味わってても、それでも。
彼女自身はもっと別のことで苦しかったり、悲しかったり、怒ったり…苦闘してる。
もちろん嬉しかったり、楽しかったりもするのだろう。
彼女のことばはガラス片のようで、きらきらと美しく、鋭く、ちょっと怖い。
(少なくとも私にとって)それらはあまりにも正確、鬼気さえ感じる。本人もそういう感じなんだと思う。長らく会っていないから言い切れない。
本当は、一番に彼女にここのアドレスを教えたいの。
最後に接触したとき、わたしは本当にどん底に居て、ロクな対応ができなかった後悔もある。きっと、きっと傷つけた。
だから申し訳なく思うし、コンタクトを取るのが怖い。
怖い理由は…下にいっぱい書くことになると思います。
怖いけど、真っ先に教えたい。彼女の意見を見聞きしてみたい。
あわよくばリンクを貼れたら、感無量ですよ…
知人たちの視線の中にあっても、あれほど鋭いことばを、ガラス片を撒く人を他に知りません。
彼女が否定するかどうかも分からないけど、私には彼女の本音がそこにちゃんとあると思うから。


にこめとさんこめは似たようなもので…でもいっこめも根が同じなのね。
つまり完璧ではないことを、おそれないこと。
大丈夫、世間はそこまで私に求めちゃいないんだぜ。的な。
思うように事態が進まないなら自分ひとりで解決できるわけがない。
不完全をおそれる気持ちは、完成度の高さを目指す志ではなくて
自らの非を指摘される恐怖からきているから。
幼い頃に受けた拒絶の記憶が、非を指摘された記憶と混ざってしまっている。
まあ両方セットの場合があまりにも多かったんだろうな。

欠落や非を指摘されること=嫌われること

という不思議な(そして強力な)方程式ができてしまった。
今でも間違った公式から逃れ切れなくて、こわい。
だから装った自分「しか」表出できなくなった。→いっこめの問題の重要性
自分すら上手く騙して欺いてきたから、仮面の下が見える度に怯えたし、こわくて余計に直視しなくなって、
そうしたら、仮面を厚塗りすることしかできなくなっていた。

ひとつの嘘(虚栄)を守るためには、みっつの嘘がまた、必要になる。

繰り返していくと、それがどんなに恐ろしいことか、分かるでしょうか。
みっつの嘘を守るのに、さらに九つの嘘を吐かねばならないのです。
ありもしない名誉と自尊のために巨大な虚構を維持する羽目になります。

はっきり言って、かなりのエネルギー浪費です。無駄使いです。
むなしい。からっぽなんです。どこまでいっても不毛で、不毛です。

まあ人間は身体の構造からしてすでに、中身が全部詰まっているわけではいので
多少の虚構がなければ生きていけない生物ではあります。
(原子レベルですら、陽子・中性子と周囲をまわる電子の間には隙間があるそうです)
ささいな夢すら無い人生なんて味気無いこと極まりません。

でもそのフィクションを自尊心を守るためだけに使うべきではない!
そういうことです。

だから傷口に沁みる痛さの方が、誰かに補ってもらったり手伝ってもらう方が、
そうやって他人に任せることのできる強さの方が、
虚によって欠落を装うことより、ずっと尊い。
世間は勝手なものでワンマンを尊んだりするけど、私は誰かを信じて任せることのできる人の方をずっと尊重します。

一定の条件を満たさなければ、家族にすら受け容れられないんだってずっと思い込んで、
でもそれは素の自分ではなかった。から、辛かったあ〜
いつも嘘を塗り重ねるたびに「ちがう!全部ウソなんだ」って叫びたかった。
例えば勉強ができたり、「手が掛からなかった」り、お「役に立つ」ことだったり。
全部が全部、嘘じゃなかったし、ある程度までは事実だったから。(だから余計に性質が悪い)
素の自分の非力さとか、虚で欠落を満たそうとする汚さとか、
はうすうす感づいてたから、余計に「有能」で「役立つ」人間にならなくてはと思ってた。
悪い意味で矛盾してる。

無力でなく非力で微力なわけなんだけど、それが実力ならしょうがないじゃーん。
「有能」でも「役立つ」わけでもないことを認められなくて、
無力だと自分を貶めるのは傲慢だよ。

微力でも力が無いわけじゃないんだから、微力なりに一生懸命やれば良いわけで。
それだけでいいんだよ、って言ってくれた人をわたしは裏切ってしまった。
当時は裏切ったことにも気づかなかったから、本当にどうしようもない。
でも最後の最後で、やっと違和感を感じさせてくれたから、
やっぱり恩師には頭が上がりません。
違和感があれば、私の性質です。分析力がものを言う。

愚かさに気がついて、だけど認識するのが怖くて、新しい環境に目を向けて見ないようにしてたのが2年前。
だんだん無視も効かなくなって、それでも現実を認めたくない傲慢さから自分を貶めて「かわいそうな自分」を満喫してたのが去年。
耐えられず、劇的な周辺環境の変化もあって廃人寸前まで追い込まれたのが今年頭。
一か八かでやっとセラピストさんの門を叩いたのが3月。
それまで見捨てず、関わり続けてくれたすべての人々に感謝しています。
過去に関わって、今は関わりの絶えてしまった人々にも。

で、半年が経とうとしてる今、世界は全く違った色彩で満たされつつあります。
やっぱり欠落や非を指摘されること=嫌われることって方程式は私自身にこびりついて、まだまだ完全に剥がれそうもないし、失敗がこわい。
油断してると完全な自分を求めて虚構に走ろうとするし。
でもそういう所を含めて、わたしがわたしであること、変化しいく先の未知や、自分でも認識できない深溝すらわたし全体であり、わたしの一部でしかない。
形をもって主張する我ではなく、輪郭の定まらないわたしを許すこと。
わたしというペースとスペース(時間と場所・空間)。
それはハードである身体から見ても、ソフトであるマインドや心から見ても、
全世界に同じものはひとつとて無い。

spaceという単語が好きです。

場所であり、距離であり、余地であり、宇宙。
揺れ続けるわたしの存在(スペース)と宇宙が同じ単語の中に語られるのは、素敵なことだと思う。
そうやって自分自身が持っている、代わりが無いという意味でのユニークさが分かるから、自分ではない人も、生命も、等しく愛おしい。
だから代替不可能な、数々の「小」宇宙が並存しているこの世界に、私はひれ伏すんです。まあ人間社会には反骨心満々なんだけど。

言葉にすると難しいけど、即物的には簡単。
わたしが降伏しているのはこの世界のあるがまま、ってこと。
それに高くて辛いハードルを設定してたのは私自身で、周囲の人たちは本当はとても優しかったこと。
そんな簡単なことが本当に分かるまでに、こんなに時間が掛かってしまった。
ずいぶんと無駄にエネルギーを費やしたし、それでもまだ改善の余地があるってことに我ながら驚くよ…
この認識ですら無限にある世界の解釈のひとつにすぎない。
アウトプットしなきゃそれすら忘れるから、こうして言葉に引き摺り下ろしている。

世界に存在・スペースが与えられて、生かされている限り、生きなきゃなって思う。
それが私がギリギリで自殺できなかった、そしてしたくなかった理由。
どんな聖人だって、徳人だって、「正しい」ことをしていたって、死に時がくれば死ぬんだ。
しょうがない、必ず死ぬんだ。逆もまた然り。

あー…乱暴にまとめると、不完全であることも含め、私はわたしでしかなく、
それ以上でも以下でも、まして幻影の中に素の私はいなかったので、
しょうがなく、というか当たり前に、許される限りあるがままでいこうと思います。
分からないことがあったら素直に他人を頼って、でこぼこと欠けているわたしを受け容れろとふてぶてしく開き直ります。
地に足着けなきゃどうしようもねーや。

ここまで認識できるようになった「ありがとう」の代わりに、
無防備に素の自分が出てるこの場所の在り処を、知っている人にも教えようと思うよ。
繰り返すけど、その後こそが私にとって本当に重要な課題になるけど…
少しずつ実現したい。一生の問題だ。
2007.08.18 Saturday ... comments(0) / -
#道々考
頭の中身をごろっと出してみようキャンペーン。

茶道、華道、香道、武道、
道徳、悪道、道義、人道、
神道、仏道、道術、正道…、

漢字圏の人々にとって「道」という字は大変便利らしい。
表意文字はより多くの言葉に使われるほど意味は拡散し、集約しにくくなってゆく。
だから一言に「道」の意味は何だ?と問われても説明をするのは難しい。
(他の頻出漢字と同じく)もはや「道」の意味は漠然としたイメージ、エッセンス、アクセントとして我々の中に存在しているのが常態であって、
即物的ではない観念としての「道」について話すことは易しくない。
――例えばアスファルトで舗装された地面を指差して「道」だと言うのは簡単だし、全く以って正しい。実際のモノと言葉とが直結するがために。

多くの意味を持つ「道」でも私が特に考えるのは、案の定、
茶道や華道に用いられる意での「道」だ。
同じ国、同じ言語とは言えど「道」の概念について私の見地はほとんど外国人(異文化人)のそれである。
いくら和の文化だ、何だ、と人々が騒ぎ立てようとも、
現代の多くの日本人の暮らしはフローリングにテーブル、カーペットにソファ。
着ているのはシャツにジーパンだし、食の幅広さは周知の通り。
よって自身の中で混乱している「道」の意味を集約する、という極めて個人的な目的のためにつらつらと考え事をしていた次第だ。
さて、その結果はというと、

茶道などにおける「道」とは
ある一定の倫理的、哲学的、美的価値観の共有によって成立する集団的組織。
または価値・知識体系そのものである。

…と言えるのではないだろうか。
言葉にすればあまりにも陳腐極まりないが、少なくとも広辞苑はこのように纏めてないので意味の一可能性としておいてほしい。

上記の意味での「道」は(少なくとも)今日の日本では、強制されることなく各々の意思または知的好奇心によって、日常生活に取り入れることが可能な知的体系となっている。
数々の「道」が潰しあうことなく並存している。という状態は、実はすごいことではないかと思う。
(ただし同分野・領域内においてさえ互いを他人事として切り離し、議論を避けることで新たな風を取り入れる努力を怠っている面も指摘できる)

こうした事象より浮かぶ断片としては、
・「道」を纏め上げてきた人々の文明・文化的ディレクション能力の高さ
・異なる知的体系が並立することへの寛容さ
が挙げられるだろう。

文明または文化の編集力が高いということは、つまり、
多様な価値観の受容能力の高さの立証である。
それは長く大陸の文明・文化衛星国(所属国)の身にありながら、しかし一地域として独自性を保つためには必要な能力だったのではないか。
現に日本という国全体が他国の直接的な支配を受けた記録はない。
(戦後のGHQ体制下の特殊状勢は除く)
価値観としては地理的・状況的な大勢につきつつ(文明・文化的側面からの支配はあったわけだが)、国全体の統治権を土着の人々が握ってきたことは、地理的な状況を考慮しても奇跡に近い。
一方でここにおいてさえ、中央の政権、価値観にまつろわぬ人々への弾圧が行われてきていることも事実であるが。

「道」ひとつにしても、こうした経歴はいかにかけ離れた価値体系であっても我々の心がけ次第では、それらの並立がいつでも可能だと示している。
そのような文明あるいは文化のありようを、自身の立姿によって示すことが日本人本来の一使命だと私は考えている。
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2007.08.17 Friday ... comments(0) / -
#西都道中記
行ったことない場所を中心に巡ってきた。

個人的な趣味として、因縁あり過ぎる大徳寺とか、
ハズせないよなー的な妙喜庵とか、宇治とか。

大徳寺で精進料理(弁当)を食べながら思ったんだけど。

僧侶って超・肉体労働な職業じゃない?

だってさあ精進料理って、
・豆腐
・湯葉
・高野豆腐
・ごま豆腐
・生麩
・乾麩
・米
が中心なんだよ?
どう考えてもタンパク質ばっかだよ!あと多少の炭水化物。
こうもっと野菜とか海草とか、そういうのじゃないんだ…
タンパク質を植物性じゃなくて動物性に置き換えたらすごい勢いでプロテイン!な食事だよなあ、と。
微妙に宗教的な環境下に居たことあるから分かるけど、
宗教って何にせよ清掃が修行の一貫として必ず生活に取り込まれてるし。
それが意外と、結構キツくてしんどい(だから修行なんだろうな)
だから僧侶って地味に肉体的な仕事じゃないんだろうか。
菜食傾向とは言っても、これだけプロテインな食事内容だし…客向けだとしても。

学芸員とか司書が、インテリなイメージとは裏腹に実際はかなりの肉体(重)労働をしているって事実に近いものがあるなあ。

正しくはイメージと事実のギャップへの困惑に似てる。むしろ困惑そのものです。


私は禅宗の教えを素直に守れないんだろうな、とつくづく思う。
どうしても斜めから見てしまう。悲しくも心中は煩悩に塗れてるんでね。
だって入口から「いま頑張らずにいつ頑張る」って…
時代に逆行してて面白いなあって考えてる時点で喝!だろうなー
(※人生励まし系の標語が境内至る所に書・墨跡・掛軸として掛けられている)
スローガンが多すぎて、お、お腹いっぱいです…

比べると念仏唱えるだけで救われるってやっぱ革新的だったんだろう。
人を救うのは厳戒の遵守じゃなくてたった7音だなんて言ったら、それまで耐えて修行してきた人たちは当然怒るよねえ。
生憎人間は優しさだけで救われはしないから厳しさも必要なんだけどさ、
世の中sweetあってbitterってとこなんでしょう。
2007.08.16 Thursday ... comments(0) / -
#音が明日をつくるなら
ケミストリーの新譜がなんか、いやに引っ掛かるなあ、と思ってたら
序盤のハープ+ピアノ部分ががっちり私好みの音だったのでした。

メロディーに関係なく弦楽器の音には弱いのです。
たぶん小さい頃から垂れ流しで聞いてたから。

耳に入ってたのは主にギターとピアノで、バイオリン、チェロ、ハープ、マンドリンも入ってたかもしれない。
両親が弾いてたり、あと家にあったCDがほぼそんな感じだった。
(彼らはもろフォーク全盛時代の人々だったので)
クラシックもオーケストラ編成からソロ、二重、三重、四重奏まで、
声が入ったのは、もうそりゃたくさん…カーペンターズをよく聴いたな。
オペラはちんぷんかんぷんだから嫌いだった。
ボサノバもずいぶんあったような気がする。

実際に弾いたのを聴いた曲はかなり偏ってたけど。
一番頻度が高かったのは久石譲で、ショパン、ドビュッシー、バッハあたりが多かったのかなあ。
クラシックでヴィオラかじったくせにまるで曲名が覚えられない(特技: 楽譜を無視した耳コピ)。
茶関係はすぐ覚えるから愛の差なんだろう。

ともかく、曲のセレクトがすごかった。ひたすら重いのしかない。
久石譲でもジブリとか可愛げのある曲なんか弾いてなかったな。
一時期は月光に嵌ってたみたいで、3ヵ月くらい毎日月光しかなかった。
ギターは禁じられた遊びオンリーだった。

ピアノでもギターでも家で弾かれちゃうと、もうね、家族は聞くしかないんですよ。
特に子どもはそれ以上逃げ場がないから。
家に帰ってくる夕方に弾かれると、何してても音が耳に入るからね。
ヴィオラ弾いてた時も毎日甚大な被害をもたらしたもんです。

しかしここでぜひ、考えていただきたいのは、
たとえば、月光を3ヵ月連続で毎日最低4時間以上は聞きながら過ごした、部屋あそび好きの7歳のこどもの心理状態です。

その後の人生に影響あるだろうー、と思うのは私の考え過ぎでしょうかね。


ときどき頭蓋にピアノの音が響くのです。
もちろんピアノの音なんか全く無い状況で。

曲は色々あるのだけど、一番タチが悪いのは久石譲が流れてきた時。
Resphoinaが止まらないの。
鼓膜に、脳髄に焼き付いて離れない。本当にひどい。

大人はそういう曲の中にある感情を「哀愁」って言って、分かってて弾くからずるい。
自分が浸るために弾いてるんだもん。

こどもが毎日そんな曲聞いてたら人生に絶望、とまではいかなくとも
「そんなに世界はかなしいものなのか」ぐらいは思っちゃうよ。

Madness(紅の豚のアレ、技巧面は無視しました)とかナウシカとかラピュタとか魔女の宅急便だったら、話がずいぶん変わってたように思いますよ。
クラシックでもどうせなら英雄ポロネーズとかトルコ行進曲とか。
穏やかなやつでもアヴェ・マリアとか。

まあ、ともかく、幼少期に聴いた音はその後の世界観に大いに影響あるってことです。
おなかの中から出たあとでも気をつけてほしいなあ。

私の世界に対する、冷静さや基本的な感情温度の根は少なからずそこにあります。
弦に似て、張り詰めた、ひやりとするなにか。
(逆の感情も期待も持っているから矛盾して息苦しい)
受け止め方の問題だって笑われるかもしれないけど、
曲を聴いてた時期と時間に比例して考えると現実的な話じゃないかと。

そういう、悲観とか諦観を含めて、弦の音が私の基調音になった。
だからピアノとハープの組み合わせは好物でもあり鬼門でもあるわけです(冒頭へループ)。
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2007.08.07 Tuesday ... comments(0) / -
#だれかが君の手を叩いても、
だれかが君の手を叩いても、君は止めないだろうね。
衝撃よりずっと痛いもの知ってるんだ。
ギュッと掌握って俯いて。

薬指の赤に拘束された。
指輪みたいって言ったら、笑ってくれる?
(やめてよ、タチの悪い冗談!)

泣いて、泣いて、否定してくれるといいな。

だれかが君の手を叩いても、君は止めないだろうね。
衝撃よりずっと痛いもの知ってるんだ。
ギュッと掌握って俯いて。

流れるはずのない涙を夢見て眠るよ。
2007.08.02 Thursday ... comments(0) / -
#うそつき、
今更感が漂いつつも、巷で人気のうそこシリーズ体験してみました。





orz

お遊びなのになんで微妙に凹むんだろう
根性はあるのに人間くささは低いんだ…根性っていったら、ねっとりアツい人間臭さがイメージとしてあるんだけどな
戦隊ものは「不憫戦隊み(レン)ジャー」「大切なモノを奪われた腹いせに淡々と争い事を続けているのだ!」

orz
2007.07.03 Tuesday ... comments(0) / -
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