Li - the過ぎ行く日々のかたみに。

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2008.02.10 Sunday ... - / -
#日と陰の話 
部分分けしたはいいけど、後日続きの内容がスムーズに書けるか?
あいにく私はそんな便利な仕様にできていません。
いいことも嫌なことも一晩寝たら忘れるシアワセな人です。
だから続き↓
どっちが欠けてもダメ。
互いの存在あってこその陰と陽ですが、どうやら双方がただ存在しているだけでは上手くいかないものらしい。
キモは両者のバランスではないかと思うのですが。
キモっていうか…こう自然な「あるべき姿」と言うべきですかね。

またボールで考えてみましょう。
ボールを日当たりのいいところで日光に当てると、陰影がつきます。
日陰に持っていってもグレートーンができます。
物理的に当たる光量が多い場所と、少ない場所が必ずできるからです。
科学力という反則を除けば、光源が日光で、
光が当たると影が出来るのは「あるべき姿」で、ごく「自然」です。

でも現代では理論上、影をできないようにもすることができる。
至近距離の全方位から強烈な電光を浴びせればいいわけです。
実際に完璧に影をなくそうと思ったら途方もない労力が掛かりますが。
また影すらできないほどの光量なんていったら、
皮肉なことに、そもそもボール自体が見えなくなることでしょう。

全方位から光を当てるなんて無茶をしなくとも、光の当たってる部分だけを見るようにすればいいじゃないか。
影なんて「無かったことに」しちゃえばいい。
しかし悲しいことに光に馴れた目には影は余計に暗く見え、
また光量の多少にも敏感になるため、ますます陰影を無視できなくなります。
(静物デッサンしている時を思い浮かべて下さい)

つまり影のある状態、陰の存在というのは当たり前なんですね。
それを無くそうすると無駄な労力を払わされるばかりか、
本来見たかったものが見えにくくなったり、根本から崩壊しかねません。

何も物理的な事象に限定される話じゃないですよ。

,能个討た氏名の話にしたってそうです。
田中太郎は会社ではパブリックな「陽」モードに入っています。
氏名のうち(「陽」である)苗字で呼ばれるというのも重要な要素です。
人間って結構、型(形)とか環境とか状況に左右されますから。
精神論と気持ちだけで乗り切れるのはごく一部の事象だけです。

帰宅した田中太郎は一転、プライベートな「陰」モードに入ります。
彼はただの太郎だったり、フルネームの田中太郎だったりします。
彼女とか家族がいれば、タロ〜ちゃんvなんてより私的な感じになるかもしれません。
緊張を解いて、ゆったりビールを呷ったりするわけです。
24時間パブリックな存在であろうとする生活では息が詰まることでしょう。

いつもの「田中」=陽の状態であることは不自然だし、疲れます。
かといって常に「太郎」=陰では生活が弛緩して、何がプライベートであるかも分からなくなります。これも不自然だし、疲れます。

公と私、両方の自分がいてこその「田中太郎」です。
単に名前だけとってみても、彼は「田中」でも「太郎」でもなく、
本来は「田中太郎」、陰陽が揃ってはじめて、その人の全体像を指すことができるのです。

さて、ここで揚げ足をとってみます。

田中太郎の一番他人から呼ばれる名が太郎だった場合と、
彼が家での生活をこそ中心にして暮らしていた場合です(自宅業とか)

一つ目の場合は、まず氏名の陰陽が

 田 中    太 郎
  陰      陽

となります。
苗字は元来、公の性格を有しているので陽になりやすいのですが、
名前で呼ばれる頻度が勝っている場合は、名前が陽だと思っていいでしょう。
要は「より表=公に出てくる名はなにか」ということです。
だからもし「タロ〜ちゃんv」といったあだ名が通り名であれば、
本名である「田中太郎」が陰になります。

生活リズムにおける陰陽の気は普通に暮らしている限り、
家の内外を基準にして考えていいと思います。
ただ自宅でも「太郎」で通っていた場合、それこそ当人の気分の切替がカギになるでしょう。
あるいは「田中」と呼ばれる機会を意識的に増やして、陰陽のバランスを取る必要がでてきます。

いっつもあだ名で呼ばれていると、いざフルネームで呼ばれたときに自分の名前であると分からない場合ってありますよね。
知人なんかで考えたら分かりやすいと思います。
「あいつ本当の名前なんだっけ?」
「ああ、自分はそんな苗字だったなあ」
…結構危険な状態かも。
自分(知人)のフルネームを忘れている(分からない)ってことは、
普段呼んでいる名=陽の方に認識が傾き過ぎているってことです。
見えているようで全体像が見えてないってことです。

それにさっきも書きましたが、常に公であろうとすることは非常に疲れることです。
王族とか政治家は生業として公の状態を維持しなければいけません。
存在が大きくなればなるほど、そのプレッシャーは重く圧し掛かります。
見返りは結構あったりする立場ですが、中途半端な野心や覚悟で臨むと痛手を受ける世界でもあります。
クラスが上がるにつれ人相が変わったり、病院のお世話になる人が出てくるのも頷けます。
あと変に「私」欲を出して、その世界から追放されたり。
しかし中には押し通せる人もいるから大したものです。


忘れかけてた揚げ足二つ目。
自営業などで自宅での生活が中心になっている場合です。
これもそんなに難しい話じゃありません。

家の中で公と私、陽と陰の切替を使い分けるだけです。
または切替のハードルを低くする。

理屈としては簡単だけど、実践するのは案外難しい。
それに現代日本ではさらに難しい。

多くの人は働く場所と家の間に物理的な距離を置くことによって、
公私のはっきりした区別を求める(単純に地価が高くてビジネス街近くに住めないこともある)。
かといって家でも充分にくつろげなかったりする(「家族」の不在、よくない住宅環境)。
しかも家に帰っても電話とかケータイとかメールとかパソコンとか、
公の尾を引かざるを得ないツールが揃いすぎている。
だから余計に公私のはっきりした区別を求める。
それで農業など、切替ハードルの低い生活スタイルの職業は嫌煙される(収入などの諸要素も嫌煙される理由に含まれるが)。
で、安定した切替リズムのある会社員を所望する人が増え……

というループ構造がひとつ、あるのではないだろうか。
まあこれもニートとかワーキングプアとかネットカフェ難民を持ち出されたら通用しない構造だけど。

あと上ではケータイなんかを私空間であるはずの家に公の空気を持ち込むツールとしたけれど、逆もまた然りです。
ケータイとかネットとかは公私の壁をぶち破る威力を持ってます。
利用できる場所ならどこまででも追いかける。追いかけてくる。
家でビール飲んでたって、いつ上司から仕事の電話が掛かってくるかもしれない。
会社で仕事してても恋人からメールが来る(すぐに返信したいし、しないと仲違いする恐れすらある)。
電源を切ってると後でブーイングが来る。

ポータブルプレーヤーなんかもこの類かな。
お陰で電車とか公の場で個人的に好きな音楽聴けるんですが。

でも、今の生活って便利だけど、何だか疲れません?
何でこんなに疲れるんだろう。

思うに、今の生活は「陽」に偏りすぎてるんじゃないでしょうか。
本当にリラックスできる、あるいはプライベートな自分自身になる、
「陰」の要素を私たちは抑圧しすぎてないでしょうか。

日本人の場合、個の単位が基本的に世帯なので「ひとり」になってもリラックスしにくいのが悲しいですね。
一人暮らし(の空間)=プライベートと言い切れないのが、
単身世帯が増えてるのに、よりはっきりした公私の区別を求める傾向に表れているのかもしれません。
でも「ひとり」で自由気ままに暮らせたら、プライベートを満喫できるかもしれない。
…と普通は夢を見ます。
自分勝手に暮らせる分には申し分ないですが、本当にリラックスできるプライベートかどうかは別問題なわけで…。
ホームシックにかかるのってこういうとこから来てると思うのです。

だいぶ話が逸れたところで一旦終わります。
2007.10.29 Monday ... comments(0) / -
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2008.02.10 Sunday ... - / -
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